新しい年が明けて、新年の抱負も心に湧いて、新しくおろした手帳にやりたいこと100項目(全部埋まらないけど)なんかも書いて、気持ちリセットだ~~
と気負っていましたが、もう1月も残り1週間を切ってしまいました。
昨年2月に始めたこのブログ、11月から更新ストップ。
書く気になれない、PCに向かえない…気持ちも時間も余裕がなくて。
それでも、今年はもう少し更新頻度を上げていけたらいいなと久々にPCを開けたところ…ま~た、PCに反乱おこされてしまいました。
なんなのよ~、せっかくやる気になったのに~もぉ~~!!とイライラ最高潮になりながら、再起動を繰り返しまして。ようやく落ち着いた模様です。
相性悪いPCに半泣きです。思いたってから2時間経過。
めげそう…
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昨年12月、クリスマスの少し前に、実家の母が永眠しました。
88歳。
父よりも4年、長生きの母でした。
備忘録として。
そんな母との別れの様子、亡くなってから思うことなどを綴ってみたいと思います。
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実家通いと最後の思い出
10年ほど前に小脳の脳内出血で搬送され入院した母。
退院後は普段通りの生活に戻ったものの、吐き気を起こしやすくなって食が随分と細くなりました。
ふらつきもひどくなり、歩行に不安があるため杖を使って歩くように。
その後も、肺に水がたまって入院したりと少しずつ体力がなくなってしまったものの、頭はとてもしっかりしており、携帯電話でメールのやりとりもできたりと認知症の不安がほとんどなかったのが父と大きく違っていました。
実家までは車で1時間余り。
1,2か月に1度は遊びに行き、運転のできない母を連れ出してお気に入りの和食屋さんでランチ、その後はショッピングモールに出かけてお買い物にお付き合い。
出かけられないときも、電話で母のお小言を聞いてあげたりこちらの愚痴を聞いてもらったり。
コロナ禍になってからはおいそれと会いにもいけず、ランチはもちろん、盆正月の会食も自粛。
せめてワクチンを打ってからと延ばし延ばしにしていた11月半ばに、やっと久しぶりに会いに行けました。
ランチはパス、の代わりにお店の少し豪華なお弁当でお昼ご飯。
その後、いつものショッピングモールへ。
久しぶりに会う母はさらに痩せて、モール内も自力で歩くのは無理なので車椅子でのショッピングです。
実家では義姉が食事担当で、もともと料理が好きで得意でもあった母としては好きなように好みのものを食べられない不満もあったようで、そんなに食べるの?と笑うくらい、つぎつぎにカートに入れていきました。
以前のように台所に立てるわけではないので調理しなくてもいいようなものばかり。
でも、好きにあれこれ選んで買えるのが楽しくて仕方ない様子で。
とても喜んでくれたのが、今から思うとせめてもの親孝行ができたのかなと思います。
それでもすっかり弱った母のようすに、もうお別れが近いのかもという予感はありました。
お別れまでの三日間のこと
12月に入ってまもなく、母がまた救急搬送で入院したと義姉からの知らせ。
自室のベッドから起き上がれず体も動かせず、様子が変なので念のため、と。
検査と処置で2週間ほどの入院、でもコロナで面会は基本的にできません。
心配して過ごしましたが、1週間ほどして義姉と私の携帯に電話をしてきてくれました。
ゆっくりとたどたどしく、早く家に帰りたい、果物が食べたい。。
なんともしてあげられず歯がゆい思いをしていたところ、義姉から面会OKが出たと聞いて飛んで会いに行きました。
ただそれは、夜には熱を出して処置することが続いて弱ってきているので、親族は早めに会いにきていただいたほうが…という病院の配慮で。。
いちいち面会予約の電話をする煩わしさに、病院に着いたら着いたで、検温、消毒、氏名や住所、面会理由等々の書類記入も要求されてイラつきながら、やっと顔をみることができました。
嚥下能力が落ちているため食事はすべて流動食、水分もストローしかダメなのですが、本人があまりにせがむので持参した果物。
大好きなラ・フランスは小さく切れば食べやすいけれど、生のみかんは消化が悪いかも、と缶詰みかんを持っていきました。
スプーンで小さくしたものを口に運ぶと、もう、美味しい美味しいと幸せそうな顔。
小さく口をすぼめて、少しずつ吸い上げるように食べるのです。
後から兄に聞いた話だと、前日に面会した義姉(=B型)は、けっこう大き目のを大胆にぐいぐいと口に持っていったらしく、私(=A型)はまた小さいのをゆっくり少しずつしかくれずで、どっちもどっちだと笑っていたといいます。
ストローから飲む水はまったく飲んだ気がしないと言って、冷蔵庫に入っていた「いろはす」を欲しがります。
口を直接つけてゴクゴク飲みたいのですね。
むせたりするのが怖くてダメダメと断っていたのですが、根負けしてペットボトルを母の口元へ。
むさぼりそうな勢いなので、少しだけね、ちょっとずつね、とボトルを抑えながら冷や冷やしながら見守りました。
これがまた、ほんとに美味しそうに飲むのです。
何度か病気をしたり入院したりの私でしたが、いつもしっかり付き添って面倒をみてくれた母。
してもらうばかりだったことを、少しだけお返しできた気持ちでした。
翌日は夫と娘も一緒に。
横浜から甥家族も駆けつけ、5歳になるひ孫を嬉しそうに撫でる母。
娘を呼んで、ずっと長いこと娘の手を握っていました。
夫も呼び寄せて、お願いします、お願いします、と。
こんなに弱っているのに娘や私を心配して思ってくれる…
母の気持ちに胸がいっぱいになりました。
翌日、再び病院からの知らせで訪れると、酸素吸入器を付けた母は眠っているようす。
それが、近づいて耳元で声をかけるとぱっとこちらに首を向けてくれたのです。
閉じている目元にはうっすらと涙が。
私が来たこと、家族がそばにいることが分かっていて、お別れを言ってくれているようでした。
長い時間の面会は駄目なのでそのまま引き上げ、兄夫婦も21時には退室しなくてはならず帰宅したその日の真夜中近く、病院からの呼び出しで兄夫婦が駆け付けました。
自宅で待機していた私に義姉からの電話。
私たちも間に合わなかったのだけど、今なら声はまだ聞こえるんだって、だから何か話してあげて、と。
母を呼びました。
電話の向こうでは心電図モニターの音が聞こえます。
ドラマで見る、あのツーーっと一直線になってしまったモニターの画面が脳裏に浮かんできました。
泣きながらもなにを言えばいいのか分からなくて、でてきた言葉は「ありがとう」でした。
今までありがとう、ありがとう…
私たちのことは心配しなくていいからね。
長いことお疲れさまでした。
ほんとにありがとうね…
お見送りのこと
翌日にはお通夜。
送り出す儀式が淡々と進んでいくなか、お棺に納める前に母の体を清めてお化粧を施してくれる納棺師の方々。
映画「おくりびと」で観たのと同じように、手早くも静かに丁寧に扱ってくださいました。
髪を洗いブローしてくださる手際もメイクをする手つきも美容師さん並みにお上手。
うっすら開いていた唇を閉じて少し微笑んでいるように整えてくださり、お母さまの口紅のお好みは?と聞かれたので、ローズ系をお願いしました。
ちょっと濃いめかな、と思いましたが、少し若返ったような母の顔。
亡くなる前の弱った様子ではなく、今ちょっとの間眠っているだけのような、よく知っているいつもの母の寝顔が甦ったようでした。
納棺師さんに心から感謝しました。
お棺には、母の好きだった田辺聖子さんのエッセイ本と、私たち家族が旅先で絵付けした、木靴を入れることに。
なぜ木靴?…なのですが。
なんでもいいから入れるものを持ってきてねと言われて、咄嗟に手に取ったものでした。
母が一人で知らないところに旅立つのにも、夫と娘と私の手作りものが身近にあったら心強いかもしれない、という思いで。
母に伝わったなら嬉しいのですが。
母を見送って思うこと
誕生月日がまるっと同じな母と私は性格も顔も体質も似ているところが多く、ツーカーで話のできる有難い存在でした。
思春期はかなりぶつかって言い合うことも多々あったし、母の思い入れや価値観に振り回されてアップアップしていた時期もありましたけれど。
結婚して以降も、子育てのことやママ友など人間関係の悩みもたくさん聞いてくれ、的確にアドバイスもくれるよき人生の先輩でした。
母のほうでも、私に話すことがよいストレス発散になっていたようです。
母は兄弟の中でも特に2番目の妹と親しくしていて、娘の私とは違う視点での本音を言い合える仲だったのが、その叔母を事故で亡くしてからは、それまで叔母にしか洩らさなかったことも私に話すようになりました。
父に対することから、兄や義姉とのことも、日ごろ言いたくても言えないで心にため込んでいることを、電話越しにたくさん聞かされました。
私なりの視点で意見を言うと、その言葉に救われたわ、そういう風にやってみるわ、と何らかの解決口を見つけてくれたこともあって。
そんな母の本音は、家庭の円満を保つために母が敢えて吞み込んだものだったので、聞かされた私が勝手にそれを父や兄たちに明かすわけにもいかず。
実家を出た私にかわって父や母を見てくれた兄夫婦にはもちろん感謝しているのですが、母が面と向かっては言えなかったあれこれは私の記憶にしっかり残っています。
私だけが知っている母の本音。
それをどうするのか、全部ではなくても、いつか二人に少しでも話せるときが来るのか、でも母のいない今後、わざわざ持ち出すこともないのだろうな、ずっと私の胸にしまっておくことを母も望むだろうな、とも思います。
今までは「母のいる実家」だったところが、今後は「兄夫婦の家」になります。
私の実家はもうなくなった、と寂しい気持ちにもなりますが、兄夫婦と会って母の話題を口にしながら、胸にしまった母の思いに蓋をし続けるのはそれはそれでストレスになりそうですし、親族としてのつきあいはあっても今後は足が遠のくことになりそうです。
いま、こうして母のいない日常になってみると、ふと、「こんなとき母ならどうするかな」とか「こんな話、聞いてもらいたいな」と思い、もういないのだなと思い知り、寂しさがこみあげてくることがあります。
アラカンになってようやく独り立ちを果たしたような、奇妙な覚悟のようなものも感じます。
これからはすべて独りで考えて決めていかないと、、という。
もちろん、何から何まで母の采配を仰いで生活していたわけではないのですが、心のよりどころ、この人だったら面倒な説明を省いても全部理解してもらえる人、という存在は、この先も母以上の人はいないだろうと、しみじみと思うこのごろなのです。
告別式も無事に終え、疲れてぐったりしていたあくる日の午後に、インターフォンが鳴りました。
届いたのはお歳暮の「蟹」
母からでした。
亡くなってから、その人からの贈り物をいただけるなんて。
いつも、皆に心配り、心づくしを欠かさなかった母。
ありがた過ぎて嬉しいやら泣けるやら。
あらためて、認知症で自分が誰なのかも分からなくなることもなく、痛みで苦しむこともなく、家族みなに会って言葉も交わして、穏やかに静かに旅立てたこと、このコロナ禍のなかで本当に有難いことだったと思います。
私は母と同じような最期を迎えることができるのだろうか。。
考えても答えが見つかるはずはありませんが、せめて、母と同じように、自分が自分であることがちゃんと分かったまま逝きたい、と切に思います。
そのためにも、体をしっかり鍛えて老化に備えていかなければ。。
できることをやっていくしかない、と自分に言い聞かせているわたしです。
来月早々の四十九日の法要を終えれば、母の遺品整理をはじめます。
母の思い出と語らいながら。。
▲母と共にいった木靴のかたわれたち。
*お読みいただきありがとうございました*
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