日々のことつづり

シンプル身軽を目指しつつ、好きやこだわりも大切に。暮らし見直し中主婦の日常を綴っています。

更年期障害の記録|耳鳴りから始まった加齢性難聴のこと

更年期の備忘録を書いておきたいとずっと思っていました。

体質の似ている娘にも、参考になる日がくるかもですし。

少しずつ記憶をたどってみようと思います。

 

※悩まされた症状(現在も一部あり)

<重い>⇩

  • 難聴
  • 偏頭痛
  • 高血圧
  • 神経痛(四十肩、五十肩、手指の傷み、テニス肘
  • 顎関節症
  • 鬱(なんにもしたくない、できない)
  • ホットフラッシュ
  • ほてり(足だけ)
  • 歯周病悪化
  • 不眠症
  • トイレが近い(就寝時も)

 

今回は難聴についての備忘録です。

 

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耳鳴りに気づいた40代初め(娘小学校4年生くらい)

ある時、車のエンジンをかけて発進してまもなく、妙な機械音がすることに気づきました。

「キーン」というか「ウィーン」というか…

モーター音のような音がけっこうはっきりと聞こえる。

びっくりしてすぐにエンジンを止めました。

車の異常かと思って。

ところがエンジンが停止しても変な音は鳴りやまず。

?なんだろう?車なにかおかしいの?

しばらく悩んだのち、もしかして私の耳?耳から聞こえる?と気づきました。

「耳鳴り」というものをその時に初めて認識したのでした。

そのまま出かけたものの、運転中も買い物中も、ふと耳鳴りがしていることに意識が戻る。

忘れていられることもある。

でも、「耳鳴りがする」ということが分かってしまうと、なにかの拍子に「あ、まただ」と気づいて不安な気持ちになる。

そんなことが続くようになり、心配になって耳鼻科を受診しました。

 

もう10年以上も前のことで正確には覚えていないのですが、聴力検査をして数値を見せられ、

「聴力が低下していますね」

と指摘されたことは覚えています。

 

聴力の低下=耳鳴り、の可能性があるというような説明をされ、聞こえで困っていませんかとお尋ねがあり、思い当たるところがあったので話しました。

 

当時小学校で読み聞かせボランティアをしていて、他のお母さまとの打ち合わせのときに遠くの席の方の声が聞き取れなかったり、後ろから声を掛けられても気づかないことがあったりすること。

茶道のお稽古のときに、8畳間の端と端だとよく聞き取れなくなってきたこと。

いずれも以前は普通に聞こえていたはずなのに気になっているんです、と。

 

気にはなっていても、そこまで不自由するということではないし、心配することでもないかと思って過ごしていたわけですが、検査で数値を見せられ、年齢の平均よりも聞き取れていない、と指摘され、その原因が突発性ではなく加齢性(老年性)による聞こえの低下だと言われてしまったのです。

 

先生によれば

「まあ二十歳がピークでそこから誰でも徐々に落ちていくものですから。それが少しだけ早くきたとお考えください」

とのこと。

少しだけ早くといわれても、まだ40代初めの自分なのに?老年性!?と一気に落ち込んでしまいました。

 

老年性難聴って?

こちら詳しいです▼

medicalnote.jp

 

ざっくり言うと、空気の振動が外耳から内耳に伝わり、そこから脳まで伝達するための有毛細胞が加齢で減少して、脳が音を理解できる信号がきちんと伝えられなくなる=

「音は聞こえるけど、音の種類を脳が理解できるように伝えるための組織が劣化する」

という感じでしょうか。

 

父が老年性難聴で、84歳で亡くなるころにはほとんど聴こえなくなっていたので、遺伝でそうなるかもしれないという危機感は多少は持っていました。

一方の母は昔から耳がよいのが自慢で、88歳で亡くなるまでほとんど不自由なし。

どうして父に似てしまったのか。

たしかに体質的に父に似ているところが多い私だけど、難聴まで似なくてもよかったのに(涙

 

病院では、耳鳴りの改善が期待できるという薬(当時はお薬手帳を用意しておらず詳細は不明)を処方され、しばらく様子を見ることになりました。

そういう薬のことは聞いたことがあり、薬で治ればいいなと少し期待して。

でも、ひと月くらい飲んだものの改善する見込みはなし。

実感として効果がなかったのでした。

 

そのときは血圧のことは話に出なかったのですが、後から自分なりに調べてみたところ、高血圧で耳鳴りを感じることもあるようです。

 

若い頃は血圧が低く、上90下60くらいしかなかった私ですが、アラカンの今は降圧剤のお薬を飲んでいます。

知らない間に変わってしまっていたのです。

内科の受診で血圧を測り指摘されるまで気づくこともなく、耳鼻科を受診した当時ももちろん知りませんでした。

 

耳鳴り、高血圧ともに更年期障害の一つ。

私の場合は、聴力の低下、高血圧、更年期の前触れが重なってしまったのかもしれません。

 

補聴器を勧められるも…

薬では効果がないとなり、医師からは補聴器の使用を勧められました。

具体的にどういう効果があるかの説明はあったはずですが、それよりも

「補聴器なんてまだ早すぎる!」

という気持ちが勝ってしまったわたし。

「耳鼻科に行けばまた勧められる」と億劫になってしまったのと、娘の中学受験準備が本格化してきて時間が取りにくくなってきたのをいいことに、それ以後受診するのをやめてしまいました。

 

父も補聴器を付け始めたのは50歳過ぎてからだったはず。

耳鳴りは気になるけど心配な病気でもないんだし、だんだん慣れてきたし、気にしなければいいだけ!と割り切って、日々の忙しさのなかで耳鳴り自体は大きな問題でもなくなっていきました。

 

聞こえにくいということの実際とストレス

ドラマや映画視聴で困る

耳鳴りは気にしなくなったものの、聞こえ自体の不自由さは日々実感することが多くなりました。

 

たとえばドラマ視聴時、海外ドラマは字幕なので困らないのですが、日本のドラマだと小さい音声ではよく聞き取れない。

家族はちゃんと聞こえているのに、「いまのところなんて言ったの?」とたびたび聞かないと分からない。

だからといってあまりに大きな音声にするのも二人に悪い…。

リモコンをいじっていたら聴覚障害者用の字幕が出せることが分かり、それだと当たり前ですが、セリフがきちんと理解できるし、聞き間違えていたことも判明したりして、これは便利と使うことにしたのですが、日本語なのに字幕…?と情けなくなってしまいました。

 

映画も好きでよく観に行っていましたが、邦画だと字幕が出ないので完全にセリフを聞き取れなくて。

段々と邦画は観るのをあきらめるように。

 

年長の方の理解を得られにくい

茶道稽古の時間、高齢の師匠や先輩が普通に会話できていることが自分には聞き取れない。

耳で不自由のない師匠には、私が40代初めで聞こえにくいということが実感として理解できないようなのです。

ご自分は聞こえるので、ずっと若い私が老年性で…なんて言っても、そんなはずないでしょ、と思われるのは仕方ないのかもしれません。

お点前中は師匠も近くに座っていらっしゃるので大丈夫なのですが、客として離れたところにいると本当に聞き取りにくい。

ことに点前に関係のない雑談が始まると、キーとなる人の名前や事柄が聞き取れないとなんの会話をしているのか分からない。

一生懸命に分かる単語を拾い、概略を掴むのに必死でいると疲れてきて、そのうち聞き取りを放棄してしまう。

たまに相槌をうって本当に「適当に」合わせる格好に。

それで済むならいいものの、こちらに話題を振られたときが厄介です。

なんの話か結局分からないと、うろたえて頓珍漢なことを言ってしまったりする。

 

そういうあいまいな態度をとっている私に、聞こえのせいだということをすぐに忘れてしまわれる師匠が向ける怪訝そうな視線が痛い…。

明快に受け答えできていた若いときには感じなかった、師匠の中の私に対する不信感のようなものが、日に日に大きくなっていくようにも思えて、いたたまれない思いでした。

 

一回り歳上の先輩も同じ。

聞こえにくいことを伝えても「私もそうよ~」と流し、聞こえていないときは会話に参加できないし、聞き返すことも何度かあるかも、と遠慮しつつお伝えしても、

「私も興味のない話だとちゃんと聞いてないし聞こえてないことがあるわよ。あなたも疲れていたりで集中できないだけじゃないの?」

と、聴力が低下しているという事実をすんなり受け入れてくれない。

こちらの態度や姿勢に問題があるようなニュアンスを暗に含められている言い方には、正直傷つきました。

 

茶道が好きで楽しく過ごしていた時間が、聞こえのせいで十分に楽しめず、それどころかストレスになっていくのは寂しいこと。

結局、他の更年期の体調不良も重なって茶道稽古自体をやめざるを得なくなりました。

 

自己肯定感が低くなる

今季のドラマ「silent」で、10代終わりに病気のため聴力を失う男の子が出てきます。

彼が抱える苦悩は自分にもわかる部分が多くて共感しながら観ています。

今まで聞こえるのが当たり前だったひとにとって、聞こえない自分というのは簡単には受け入れられない。

でも周囲の反応というのは残酷で、否応なしに聞こえていない自分という現実を突き付けてくる。

聞こえないだけであって、理解できないわけでは決してないのだけど(聞こえれば理解できるのだけど)周囲には「理解力の乏しいひと」という風に判断されてしまう。

これって、すごく自信を無くすし落ち込みます。

人との接触は会話で成り立つものがほとんどの社会のなかで、その場にいても聞こえないせいで会話に参加できないとなると、自分がそこにいる意味がないように思えてきます。

 

今までのように思うように自分を人前で出しづらくなり、おどおどする、とまではいかないとしても、なんとなく引け目を感じるようになる。

聞かれたことにさっと的確な回答をできないと、相手に馬鹿にされたような視線を向けられたりもするし、意図せず不快に思われたりもする…とこれは私の性格ゆえなのかもしれませんが。

相手はそう感じていなくても、こちらが必要以上に気を遣うことが多くなるのです。

 

そんなストレスを溜めこむくらいなら、いっそそういう場にはいかない、となり、段々と人との接触を避ける様になってしまいます。

 

高い声か低い声か~言葉の聞き取りやすさとは

検査結果では高い音域が聞きとりにくいと出ていて、一般にもよく高い音が聞こえなくなると言います。

確かに機械的な高音は聞こえないことが多く、振動のしっかりと響きやすい低音は聞き取りやすいのですが、声、となると少し違う気がします。

娘の声は高音だけどよく聞き取れますが、夫の低音は聞き取りにくい。

私の場合、女性よりも男性の声のほうが聞き取れないことが多いようです。

 

聴力検査をすると、人の会話の聞き取りに必要な音域というのがあって、やはりそこが低下しているので聞き取れていないという結果になるんですが、実際の日常での問題を考えてみると、低い音でぼそぼそと話すひとのほうが、なにを言っているのか全く分からないことが多い。

 

人の声を聞き取りたいということは、つまり生活の中で他人が発している「言葉」を聞きたいということ。

言葉=会話に必要なのは単語です。

他者との日常生活においては、単語が聞き取れるかどうかが、聞こえがいいかどうかということになってきます。

 

単語の中で、「母音」の、あ、い、う、え、お、という音は強い音で耳に残りやすい。

でも「子音」は弱い音なので(濁音なんかは強いですが)、はっきりと発音されないと母音に負けてしまう。

 

低音(特に男性)のぼそぼそ声では、もともと強い母音がさらに強調されて、弱い子音の音が母音に消されやすいのではないかと思っています。

そもそも日本語自体、ほとんどが子音+母音の組み合わせ。

単語に母音が多い。

高めの声だと子音と母音の区別がつきやすく、単語として聞き取りやすいのかもしれません。

 

ただし、これらはあくまでも私が軽度~中程度の難聴だからいえることだとは思います。

高度、重度難聴になってしまえば事情は変わってくるはずですので。

 

ということで、私がいつも家族にお願いしていること。

聞こえないからと聞き返されたときに、「大きな声で」言うほうがよいと思われがちですが、大きな声よりも少し高めの声で「しっかり子音を発音して」話してもらったほうが断然聞き取りやすい、です。

「声」は聞こえているのだから、必要以上に大きくなくてもいいのです。

(怒鳴ったりしなくてもよいってことです)

子音をはっきりと発音する、活舌に注意してもらえるだけで単語を聞き取りやすくなるので、もしも身近にちょっと聞こえにくいという方がいらっしゃったら、そこを気を付けて頂けると相手の方に伝わりやすいかもしれません。

 

おわりに

今回は、耳鳴りから自分の老年性難聴を自覚するようになった経緯と感じてきたなどを書いてみました。

 

58歳の今は補聴器を利用しているので、どうして使うことにしたか、なども今後書いていきたいと思います。

どこかで同じようなお悩みを抱えてらっしゃる方の参考になれば嬉しく思います。

 

ホトトギス「秋月」 秋もそろそろ終わりですね

 

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