日々のことつづり

シンプル身軽を目指しつつ、好きやこだわりも大切に。暮らし見直し中主婦の日常を綴っています。

青信号運転中の間一髪と自転車で交通事故に遭ったときのこと

車に乗っていると、危ない!という体験は誰にでもありますよね。

先週末の怖い体験と、過去の体験、事故に遭った体験を綴ってみます。

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青信号での間一髪

先週土曜日、娘の運転で家族で買い物にでかけました。

助手席に夫、娘の後ろにわたし。

 

午前中の溝掃除でくたびれてうとうとしていたところ、ドンッと娘がペダルを踏みこむ音と急ブレーキの反動で前のめりになって目が覚めました。

 

「な、なに!?どうしたのっ!?」

思わず声を出して前方を見ると、そこは交差点に差し掛かったあたり。

目の前の信号は青。

交差点少し向こうには対向車が一台。

右に走行していくプリウスが見える。

 

「危なかったな」夫の言葉。

「なにがどうなったの?」

私の問いに答える夫。

「赤無視」

 

赤無視、つまり赤信号無視のこと。

やっと状況理解したわたし。

 

「突っ込んできたのかぁ~」

 

こちらが青信号で交差点に入りかかったときに、左からきたプリウスが停止せずに横切っていったわけでした。

 

視界左に入ってくる侵入車に、咄嗟にブレーキを踏んだ娘。

「よく止まったな」

娘を労う夫。

「うん」

心臓バクバクの私よりも娘は落ち着いている様子で、

「とにかく止まらなきゃ、と思ったから」

 

近づいていた対向車が通り過ぎていきました。

「対向車の人も見ていてびっくりだったろうね」

 

特に減速するでもなく走り去っていく右手のプリウスを見ながら

「あっちはどうだったのかな」

私がつぶやくと

「多分、気づいてないと思う」と夫。

 

プリウスミサイル”って言葉を3人ともつい口にして苦笑い。

運転手は男性で年配の方だったようでした。

 

信号を故意に無視して通り過ぎるということは、普通はやりませんよね。

 

きのうの方もぼんやりしていたり、他ごとをしていたり、もしくは信号を見ていなかった、信号があることに気づいていなかった、その辺りかもしれません。

運転歴35年の私も、うっかり赤無視してしまった経験はゼロではありません。

田舎の見晴らしのよい交差点でしたが、周囲に車がいなくてよかったーとほっとした記憶があります。

 

今回のようなケース、信号のない交差点では割とよくあります。

 

こちらが優先で左右が一旦停止の場合に、停止せずに突っ込んでこようとする車にドキッとしたリ、急ブレーキで回避した経験は何度もあります。

(私が気づいて回避しなかったら事故になっていたわけです)

 

その経験から、交差点に入る際に左右に車が近づいているときには、ちゃんと止まってくれるか様子をみつつ入るように気をつけています。

 

でも青信号で交差点を直進するときに、左右から車が出てくることなんてまず考えない。

 

完全に安心&油断状態。

 

娘が、視界に入った異常に素早く反応できたこと、渾身の急ブレーキを踏めたことは、若いからこその反射神経だったでしょうし、車校での急ブレーキ練習が功を奏したということでもあるのでしょう。

 

青信号でも油断できないもう一つの体験

これは一人で運転していたときのこと。

 

赤信号で停車していて、青になったので発進し始めたところで、右からきた「赤無視」車に驚いてやはり間一髪免れたことがありました。

 

娘のように左から来る車に対しては、向こう側の車線なので少しは猶予があります。

でも右から来る場合は手前側の車線

気づいたときには自分のすぐ目の前、もしくは真横に突進してくることになる。

 

咄嗟に急ブレーキとともにハンドルを左に切って停止。

その前を赤無視車は横切っていきました。

 

運転席の男性はこちらを見ませんでしたが、助手席の奥様と思しき方が申し訳なさそうに私に会釈をされました。

 

それで少しは気持ちが軽くなったとはいえ、再発進して家に着くまで、心臓のドキドキと体の震えはとまりませんでした。

 

それからは、先頭での信号待ちで発進するときでも、左右の車がちゃんと止まっているのか、たとえ青信号であろうとも確認するようになってしまいました。

特に右側、突っ込んでくる車のフラッシュバックのような感覚はいまだにときどきあります。

 

自転車に乗っていて事故に遭ったときのこと

実は独身時代に、会社の寮から職場に向かう途中の交差点で、左から来た車にはねられた経験があります。

 

はねられたといっても、正確には体にぶつけられたのではなく後輪に当てられて自転車ごと倒れたのですが。

 

そこは住宅街。

左側から来た車は、一旦停止標識を無視して突っ込んできたのでした。

 

私は高校生の頃は自転車通学で、交差点での事故が同級生や出身中学で続けてあったため、横断歩道を渡るときに右左折してくる車の運転手が自分に気づいてくれているかを運転席を見て確認する癖がつきました。

 

こちらを見てくれていれば安心できる、という、自己防衛策みたいなものです。

 

事故に遭ったとき、左からの車は止まれの白線手前で減速したので、止まってくれる(というか一旦停止で止まるはず)のだと思い、そのときは運転手の顔を見ないまま、ありがとうの気持ちで軽く頭を下げて通り過ぎようとしました。

 

そう、顔を確認しなかったのです。

 

後日分かったことは、運転手の女性は後部座席の子供に話しかけるために減速しただけで一旦停止する気はなく、その上後ろを振り返っていたため前方の私の存在に気づいていなかったのでした。

 

私は減速時点で、止まってくれるのだと早とちりして頭を下げてしまったので、運転手がこちらを見ていないことに気づけなかったのです。

 

交差点中央辺りを通り過ぎかけたところで、車が動いて向かってくるのを感じ

「え、なんで…!?」

と声に出し…

はっきり覚えているのはそこまで。

なにが起こったのかよく分からないまま、自分の体が傾いていくのを感じ、そのあとは記憶がありません。

 

記憶が戻ったのは、運ばれた病院でCT検査のため寝台に寝かされていたとき。

母が私の名前を呼ぶのに気づいて目を開けました。

 

現場検証を終えて警察の方から説明されたのは以下のような状況でした。

  • 減速していた運転手が前を向いて加速しかけたところでちょうど交差点を渡りかけていた私の自転車の後輪にあたって、そのまま倒された。
  • 体に車体が当たったわけではないが、転倒時に頭の右側を強打した(3箇所傷口が開いて縫いました)
  • 住宅地で、近所の人が何人か駆けつけて助けてくれた。
  • 救急車内で、氏名と電話番号ははっきり答えたので家族に連絡できた(自分では覚えていないのですが。救急車内?で声をかけられたような朧な記憶)
  • 運転していた方は、実は一週間前にも同じ住宅内で事故をおこしていて、荒っぽい運転で近所では名前が知られていた
  • 倒れた場所はある家の玄関先で、そこに大きな飾り石が置いてあって、10cmと離れていない場所にわたしが倒れた

 

「もし10㎝ずれて倒れていたらあの石に頭を打ち付けて危ないところだった。命拾いしたね」

と警察官に言われました。

 

3週間目安で市民病院の脳外科に入院。

ただ、同室の方が、夜中に声を挙げたりうめいたり…で熟睡できずに参っている私を見て、担当医が自宅療養にして通院でもいいよと勧めてくださり、3週間待たずに退院。

 

確かに自宅のほうが安眠できて、ストレスは減りました。

傷は順調にふさがりましたが、めまいがずっと治らない。

治ったかと思っても、なにかの拍子にぐらっとくるし、就寝時に寝返りを打っても一定方向を見るとぐらっとなる。

検査を重ねても異常はないのですね。

「精神的なものでしょう」

と言われましたが、ぐらっと感じるのは錯覚でもなんでもなく事実。

 

職場に復帰しても長らくその感覚は治らず、でも自分にしか分からないことなので理解もなかなかしてもらえず、無理しなくてもいいよと言ってもらえる言葉には、私のぐらっとなる感覚への理解は含まれていないのが、もどかしくつらかった。

 

私は大人になってから、憧れのヴァイオリンを習い始めた経験があるのですが、このときの慰謝料で購入したのでした。

 

事故で手にしたお金は使ってしまったほうがいい、とどういう根拠があるのかは分かりませんが母親に言われて(確かにあまり嬉しいお金でもなかったし)、知り合いに紹介いただいた先生のところに習いに行き、その先生のお勧めショップで素人が買うにはお高めのヴァイオリンを手にしたのでした。

 

話が飛んでしまいました。

 

職場復帰して暫くの間は、寮からではなく実家から通ったのですが、通勤は車。

 

ところがいざ乗ってみると、運転が怖いのです。

 

怖くて乗れないほどではないのですが、信号のない交差点に差し掛かると、体のどこかが拒否反応を起こしそうになる。

減速しなくてもいいところでも、つい減速して左右を確認しないと通り過ぎることができない。

 

これも一種の精神的な後遺症になるのでしょうか、我ながら不思議な感覚でした。

 

はねられたのは自分です。

なのに、運転しているほうの立場で怖くなる。

交差点から飛び出してくる誰かをはねてしまうかもしれないという恐怖感。

 

記憶は曖昧でもはねられたということを体は覚えている。

運転する側になってもそのときのリアルな恐怖感が警告を鳴らしてくる。

 

うまく説明できないのですが、そんな感じでしょうか。

 

今はこのとき感じたような慄くような恐怖感はありませんが、交差点でなくても歩行者や自転車などを見ると、事故以前よりは過剰に心配になる部分は残っているような気もします。

 

実はこの数年後、叔母を同じような事故で亡くしました。

叔母の場合はもっと大きな交差点で、横断歩道を自転車で渡るところでした。

場所、スピード、当たったタイミング、いろいろなことが少し違うだけで助かるかどうかが分かれてしまいます。

 

たとえ一瞬のことでも、向かってくる車への恐怖、「なぜ?」という気持ちは覚えている、ということを知っている私には、事故に遭った時の叔母の心情が分かりすぎて。

 

本当に悔しく悲しかったです。

 

最後に。経験者として伝えたいこと

車を運転する以上は加害者になる可能性は常にあるし、車社会である以上は被害者になる危険性も常にある。

 

後ろから追突されたり、分離帯を越えて飛んでこられたり、そういうのはさすがに回避できません。

 

でも、交差点や対向車など、相手が見える場合には、よっぽどの高スピードでない限り、相手の顔を見て、視線がどこにあるか、こちらに気づいているのかを確認する、という目視確認は事故を防ぐのにかなり有効だと思っています。

 

運転席にいても、自転車に乗っていても歩いていても、どの立場でも。

 

相手が自分の存在に気付いているのかをちゃんと見て、気づいていないようなら減速したり止まるという選択肢をいつでもとれるように構えておくこと。

 

気づいていないかもしれない、こっちに向かってくるかもしれない、止まらないかもしれない。

 

そして「相手の顔を見て確認する」ことの大切さを一人でも多くの方が意識して実践してくだされば、もっと事故が減るのではと感じます。

 

それから、被害者の疑似体験というものを、もし可能なら3D映像でも使って車校でやれたらいいのにと思います。

 

被害者になる恐怖を体感すると、私がなったように、運転するということの怖さを逆説的に意識できるのではないかな、と思うのです。

 

今は車の安全機能もどんどん進化していて、人が気づけないことやできないことを車がやってくれるようになってきました。

 

でもそのことに安心したり過信するのは危険だと思う。

 

基本はあくまでも人と人。

 

目視確認というマニュアルな危機管理動作は、どんなに技術が進歩しても必要だしやるべきだと思います。

 

昔読んだ、F1ドライバー中嶋悟の著書に書いてあったことをご紹介します。

(言葉は正確ではないかもですが主旨として)

「車は走るものではなく、走らせるもの」

「車は止まるものではなく、止めるもの」

 

あと何年、運転できるか分かりませんが、この意味をいつも忘れずに安全運転を心がけたいと思います。

 

皆様も、どうぞご安全に。

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甘茶が咲いています。明日から6月ですね。

*長い文章、最後までお読みいただきありがとうございました*

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